和利堂への入口の道のわきに 案内板がありますので、見逃さないよう注意してください。
こちらの観音堂へは車で入っていくことが可能です。
和利堂の見どころ
- 空閑僧侶の墓
和利堂案内図
和利堂
和利堂は間口2間半奥行き2間半の造りとなっています。
堂内は中央に厨子が置かれ、左側にも仏像が見えます。
石仏・供養塔
大黒天さまのようです。
石仏がたくさんあります。和利堂の左手には 弁財天さまなども確認できます。
空閑僧侶の墓
空閑の業績
嵩山の城は岩櫃城主齋藤憲広の末子で18才の城虎丸を城主として守っていた。永禄8年(1565)真田軍に攻められ城虎丸と家来婦人子どもまで大天狗から飛びおりあわれな最後をとげついに落城した。その後江戸時代の天和元年(1681)沼田城改易まで百年以上も慰霊など行うことができなかったのである。空閑は貞享元年(1684) 中村観音堂の本尊を江戸から持ってきた坊さんであるが、江戸へ帰らず五反田に住みついたのである。それから後五反田村の人たちに生活全般にわたっての指導をはじめた。19年後の元禄15年(1702)には五反田の人90人を施主に坂東三十三番の観音像を嵩山中に建てまた10年後の正徳2年には秩父・西国の観音像を造立し嵩山合戦で死んだ霊を慰めた。なお享保14年(1729)には、みじょうの平に石経(石に経文を書いたもの)を納めて経塚を造り供養を五反田の人と共に重ねている。記録によればそのほか学問・生活の智恵など全般にわたる指導をされたことが見られる。ここ中村には空閑の井戸「道心屋敷」など残されている。
石塔は正面に常蓮社得誉空閑比丘・側面には寛保2年(1742)正月19日・惣弟子百十八人施主と刻みつけてある。これによると空閑は師匠で人数からみて五反田村中の人が弟子であったと推測され、その人たちによって供養されたものである。このような業績を見ると空閑は立派な僧であり偉大な指導者であった。(観音堂案内板より)
札所情報
堂名 | 和利堂 |
寺院名 | 和利山西念寺 (別当清見寺※1) |
御本尊 | 千手観世音菩薩 |
御真言 | オン・バザラ・タラマ・キリク |
御詠歌 | にごりしな 清き沢べの 観世音 和利のお山の ちかひたのもし にごりしな 清き沢べの くわんぜおん わりのお山の ちかい頼もし※1 にこらしな 清き沢べの くわんぜおん わりのお山の ちかい頼もし※2 |
縁日 | 3月17日※1 |
住所 | 群馬県吾妻郡中之条町五反田 |
電話 | – |
駐車場 |
※1 中之条町誌情報 ※2 群馬県史資料編11
アクセス
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