小幡にツーリングの途中で寄りました。ツーリングとは別に小幡の紹介情報なので小幡のページとして作成しました。最後の周辺の案内でもわかりますが見どころがたくさんあります。散策しながら食事や観光を楽しんではいかがでしょうか。
城下町小幡の成り立ち
小幡藩の成立まで
小幡氏は甘楽の地の国峯城を本拠にした豪族でした。 鎌倉時代よりその名が知られ、南北朝時代には関東管領上杉氏の重鎮として上州八家の一つ、また上州四宿老 (長尾、大石、小幡、白倉)の一人として活躍しました。
天文15年(1546)の河越城の戦いで上杉憲政が敗れた後は、甲斐の武田信玄の幕下に加わり「上州の赤武者」として恐れられました。武田氏滅亡後は織田軍に属しましたが、本能寺の変(1582)以降は小田原北条氏の勢力下に入りました。天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めで落城すると、甘楽の地を徳川家康に明け渡し、信州に逃れました。
天正18年(1590)から慶長6年(1601)までの11年間は、小幡領2万石として奥平信昌が領主となり、国峯城の枝城であった宮崎城(現富岡市)に入りました。奥平氏は長篠の戦で武功をあげ、家康の長女亀姫を夫人としました。
その後奥平氏は美濃加納(10万石)の城主となり、そのあとを水野忠清(後の松本藩主)、井伊直孝(後の彦根藩主)が、それぞれ1万石を領収しました。
慶長20年(1615)の大坂夏の陣で豊臣氏が滅びると、戦国時代が終わり、徳川幕藩体制が成立しました。天下は太平の世へと移っていきます。
織田氏による小幡藩の成立
元和元年(1615)、天下を統一した徳川家康は、織田宗家を継いだ織田信長の次男信雄に大和国(奈良県)宇 郡3万石と小幡2万石を与えました。翌年、信雄の四男信良が福島の仮陣屋に入り小幡藩政が開始されました。
寛永6年(1629)、三代信晶の時代に小幡への藩邸移転が計画され、地割、用水割、水道筋見立て等が実施されました。小幡が選ばれた要因としては次のことが考えられます。
●福島の仮陣屋では手狭となった。
●小幡氏の重臣であった熊井戸氏の屋敷跡を利用した。
●西側に雄川の切り立った高さ約20mの断崖を持つ要害の地であった。
●雄川からの豊かな用水の確保が容易であった。
着手から13年の歳月が過ぎた寛永19年(1642)、福島の仮陣屋より小幡藩邸への移転が行われ、小幡は小幡藩の中心となりました。その後、四代信久、五代信就、六代信右、七代信富、八代信邦と、織田家小幡藩152年の歴史が続きました。
織田氏から徳川氏へ
明和4年(1767) 小幡藩の内紛が表沙汰となった明和事件で、織田氏は出羽(現山形県)高島に移封されます。代わって藩主となったのが、親藩大名の松平忠恒です。以降、小幡の地は松平氏の領有となり、四代約100年の統治が続き、明治維新をむかえます。
(看板の文章より)
大手門跡
寛永19(1642)年、織田氏三代信昌は、小幡陣屋を築造して福島から移住しました。陣屋は大手門を境に、雄川と雄川堰に囲まれる東西約600m、南北約760mに及ぶ範囲で、藩邸を中心として60余りの藩役所、武家屋敷と2つの神社を構え、その各々に雄川堰の用水を分配する広大なものでした。
陣屋の主な出入り口には門が設けられ、陣屋の正面にあたるこの付近には、表門 として「大手門」が置かれていました。正式な門は陣屋が完成して24 年後の四代信久の時代に棟上げが行なわれました。
この門は「四脚門」といい、親柱の前後に控え柱各二本が設けられ「八脚門(控え柱八「本)」についで格式が高かったと言われています。織田家が右大臣、内大臣正二位というような家柄だったため、このような門を建てたと考えられます。
この礎石は、往時の大手門のものです。
(看板の文章より)
日本名水100選 雄川堰
雄川堰
小幡のまち中を流れる雄川堰は、いつ開削されたものかは不詳ですが、雄川堰用水取入口改修記念碑(昭和18年建設)には「雄川ハ上古人創立スル所ト伝フ」と刻まれ、藩政時代以前から存在していたと考えられています。雄川堰は、一級河川雄川から引き込んだ用水の中軸となる大堰と、この大堰から取水し陣屋内に廻らされた小堰から成っています。建設当初の目的を示す史料も残されていませんが、大堰は古くから住民の生活用水、非常用水、下流の水田の灌漑用水として利用 されてきました。
小堰は、陣屋内南東部の3か所で 大堰から取水し、陣屋内の生活用水や楽山園をはじめとする武家屋敷の庭園に利用されてきました。飲料水や生活用水として大切な場だったため、三代藩主織田信昌は、御用水奉行を置き、厳重な管理にあたらせました。
大堰は、大手門跡より約2.3km上流に、雄川からの取水口が設けられており、そこから武家屋敷地区の東側を北へ流れ、途中二手に分流して再び大手門跡前で合流し、町屋地区の中央を流れています。この大堰には、上流より 一番口、二番口、三番口と呼ばれる3か所の取水口が設けられており、武家屋敷地区を流れる小堰に分流していま す。取水口はそれぞれ一升枡、五合枡、 三合枡の大きさに造られ、各武家屋敷に均等に水が行き渡るような工夫がなされています。
町屋地区を流れる大堰の水路幅は 1.2~1.7m、深さ(石積高) は1.1~1.7 mで、大部分が自然石の矢羽積、または切石の亀甲積となっています。大堰には現在も41か所に洗い場が設けられており、昭和40年代までは蚕を飼育する竹製の「蚕かご」等の養蚕道具の洗い場として利用されていました。現在も日常的な農作物の食材洗い場等として、また季節によっては中に里芋を入れて水力で皮をむく芋車と呼ぶ道具を設置したりして日常的に利用されて います。
江戸時代初期より現在まで受け継 がれている雄川堰は貴重な歴史遺産であり、日本名水百選(環境庁)、水の郷百選(国土庁)、疎水百選(農林水産省)、土木学会選奨土木遺産に選定されています。
(看板の掲載文より)
吹上の石樋 / 矢羽橋分水路
吹上の石樋
吹上の石樋は、堀沢川を横断する雄川堰に架けられた水路で、石材を組み合わせて構築されています。慶応元年(1865 年)、7か月と250人の手間を費やして造られました。
雄川から引き入れた水は、長さ7.7mの巨大一枚岩を組み合わせたこの石麺を通り、雄川堰へと流れていきます。 (町指定重要文化財)
矢羽橋分水路
矢羽橋分水路は、小堰の流れを2方向に分け、各家臣屋敷群に水を流すために設けられた分水嶺で、一方(北方向)は旧小幡藩武家屋敷松浦氏屋敷(群馬県指定史 跡)の苑池に入り、もう一方 (南方向)は国指定名勝楽山園に注がれています。
葬礼橋
雄川堰には、両側の家々の通行のために十二の石橋が架けられていました。中でもこの場所にあった石橋は、「葬礼橋」と地元の人々に呼ばれているもので、東側の家々に不幸があった場合、その葬列は必ずこの葬礼橋を渡って西側(現在の県道)へ出て通行していました。その理由は、町並みの中ほどにある小幡八幡宮の参道を横切ることを避けるためと言われています。
葬礼橋は、小幡八幡宮の参道を挟んで、上下二箇所ありましたが、橋幅が狭く通行に不便なため、現在は撤去されています。この板石は、地元の人々に長い間大事にされてきた葬礼橋を今に伝えるものです。これらの橋石も雄川堰と共に町の重要文化財に指定されています。
(看板掲載文より)
古くからの言い伝えって大切ですね。伝えていかないと消えてしまいます。
歴史民俗資料館/別館
飾られているランタン(提灯)について
台湾では春節(旧正月)から数えて十五日目にあたる「元宵節 (げんしょうせつ)」にランタンを灯す風習があります。これには吉祥や邪気払いの意味があり、 毎年この時期には街中にランタンが飾られるとのこと。みなかみ町と台南市は友好協定を締結していて、今回のランタンはコロナの早期収束及び早期交流回復を願う「台南市」より送られたそうです。甘楽町もみなかみ町を通じて台南市との交流を行っているそうで、今回ランタンをみなかみ町より借用し、コロナの早期収束を願い設置されてるそうです。
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