定林寺

秩父札所十七番 定林寺

定林寺は「あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない」の舞台で何度か登場。納経所にはあのはなの絵馬を取り扱っています。
昔は林寺ともいい秩父神社の近くにあったそうです。

定林寺じょうりんじについて

由来について
當時開闢の来由は往年壬生の良門とて東國に双となき英雄有其性剛強にして慈心なく殺害せらるるもの多く臣民にも家臣にも克に触れ時にのぞみては情な□ふるまいのみ家臣林太郎定元と云う者頻りに諌てや□ず良門甚だ怒りて定元を放遂し其の領ずる処の財産を没収す忠言耳に逆習今にはじめぬ克ながら湯武諤諤を以て昌へ桀紂は維々を以って亡ぶ忠良の臣國を去り侫者時を得たり良門の家運風前の灯の如し定元は古郷を離れ當所に知音ありしかば遥々此の里に至て知る人を尋ぬるに其の人は其年其月空しくなりて跡を弔人もなしと答定元限りなく憂其の辺に旅舎を求め暫く労を休めけるに其の妻長途の疲にや一朝の露と消えぬ哀情暘を断れども泣々一株の木の下に埋む自も遯生せけれやと思へども三才の嬰児あれば心ひかれせんすべなく日頃の勇氣も弓折矢盡きて泣あかしけるが程なく病の床にふし妻と日へだつる克三日にして同じく道の辺の艸葉の露となりぬ哀れさ言んかたなし爰に空照と云沙門有此嬰児旅舍に弧と成て何そ是を見て只にやまんと墨の衣袖を覆いかくして生育ぬ月日の過る事白駒の隙を行くが如し此の嬰児己に成育に及び仕へるを求む空照是を供ない関東に仕べき家を尋ぬるに宿世の縁にや良門田猟に出て此の児と空照が道の傍に立るを見て「此の児が相只人ならず沙門吾に得させよ」と云ふ空照曰「公の性名如何」答曰「壬生の良門と云う」空照掌を打て曰「竒成哉此嬰児は是君に仕へて私なく忠言を盡せし林太郎定元が子なりと具に終始を語る良門大いに感じ則空照と共に屋形になずさへ歸り自童児に首服を加へ林源太良元と名付父が旧領を授け空照が生育の功を賞す恩録山の如しと錐も取て受けず「某出家の身財寶望にあらず民済恵を厚し收処を少し散ずる処を多玉へ是愚僧が願也」と云いければ良門感じて侫臣を遠ざけ忠良を賞じ自□花経を金字に書寫し定元夫婦の菩提のため彼塚の辺宮路の里に一宇を建て定元が性名を以って定林寺と号す観音の霊像は佛の告に依安置す世浴林寺と云ふは定元が性氏なるを以てなり
案内板より

定林寺の見どころ

定林寺境内案内図

境内案内図

鐘楼

梵鐘は、宝歴8年の奉納で秩父三名鐘のひとつ。西国、坂東、秩父の日本百番観音霊場の本尊とご詠歌を鋳出した珍しいもので、工芸品として昭和三十九年三月県指定の文化財になっています。

地蔵尊

念仏供養塔、地蔵尊、巳待供養塔が祀られています。

本堂

四間四面の簡素で均斉の取れたお堂です。内陣は古風な阿弥陀堂のように念仏廻廊が回っています。
本尊は十一面観世音立像で、像高55cmの寄木造り、願主武州国郡法印元暁の銘があり、文禄二年癸丑三月二十三日開眼の墨書があります。
また、安政、明治の徳行家、井上如常の父青岳の描いた狩野風な絵の掲額もあります。

欄間の彫刻や天井画が見事です。

本堂後ろの念仏回廊には、観音様の厨子と結ばれた緑色の紐があります。この紐に触れて「南無観世音菩薩」と三回唱えて祈願します。

絵馬掛け

ぱっと見るとやはり「めんま」が多いみたいですね。
みんな何をお願いしたのでしょうか。

あの花

あの花を感じる景観です。

観音霊験記と御朱印

壬生良門の家臣林太郎定元
定元は良門に追放され、定元の子林源太良元は、空照という僧に育てられ、父の堂宇を建立して、定と林をとり定林寺とした

墨書き 実正山 十一面観世音 定林寺
三宝印 佛法僧寶

寺院情報

宗派曹洞宗
山号実正山
寺院名定林寺
御本尊十一面観世音菩薩
御真言おん まか きゃろりきゃ そわか
御詠歌あらましを 思い定めし 林寺はやしでら かねききあえず 夢ぞさめける
住所埼玉県秩父市桜木町21-3
電話0494-22-6857

駐車場

お手洗い

休憩所

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